2.11「第二代会長戸田城聖先生 誕生日」

2月11日は、第二代会長戸田城聖先生の誕生日です。1900(明治33)年石川県に生まれた戸田先生は、その後北海道に移り住み、1920(大正9)年、大志を抱いて上京します。生涯をかけて悔いのない「人生の師」を求めていた戸田青年は、初代会長牧口常三郎先生と出会い、「この人なら信じられる」と師弟の道を決然と歩みはじめました。

やがて、日蓮大聖人の仏法にめぐりあった牧口先生と戸田先生は、1930(昭和5)年11月18日に『創価教育学体系』の第一巻を刊行します。この日が、創価教育学会の出発の日であり、のちの創価学会創立記念日となったのです。
戦争の泥沼へと突き進む、時の軍部政府の思想統制に、断固として抵抗した牧口先生と戸田先生は、1943(昭和18)年7月6日、治安維持法違反・不敬罪の容疑で逮捕・投獄されました。牧口先生は獄中で尊き殉教をとげ、戸田先生は2年に及ぶ獄中闘争を貫いて終戦間際の1945(昭和20)年7月3日に出獄します。

獄中で唱題に励み、法華経を繰り返し読むなかで戸田先生は「地涌の菩薩」の使命を自覚し、牧口先生の志を継いで生涯を広宣流布に捧げようと決意。出獄後、創価教育学会を創価学会と改称し、「この地球上から“悲惨”の二字をなくしたい」と、ひとり闘争を開始します。
1951(昭和26)年5月3日に第二代会長に就任。その時に掲げた願業である「75万世帯の弘教」をのちに達成。『日蓮大聖人御書全集』の発刊、創価の平和運動の原点となる「地球民族主義」の構想や「原水爆禁止宣言」の発表など、広布史に燦然と輝く数々の偉業を成し遂げながら、戸田先生は次代を担う青年の育成に全魂を傾け、盤石(ばんじゃく)なる広布の礎(いしずえ)を築きます。
1958(昭和33)年、3月16日の「広宣流布記念式典」で「創価学会は宗教界の王者である」と師子吼し、池田青年をはじめとする後継の若人にすべてを託した戸田先生は、同年4月2日、広宣流布に捧げた58年の尊き生涯を閉じられたのです。

第二代会長戸田城聖先生


「伝統の2月闘争」

1952(昭和27)年の2月、当時24歳だった若き池田大作先生は、蒲田支部の支部幹事として、それまでの限界を大きく打ち破る「201世帯」の弘教を達成しました。これが広布史に燦然と輝く、伝統の「二月闘争」です。

当時、最も活力のある支部でも月に100世帯の弘教という時代にあって、この先駆の戦いが、全国の同志に勇気と確信を与え、波動を広げました。
この蒲田支部の「二月闘争」によって一つの壁を打ち破った学会は、この年、2万世帯を超え、翌1953年以降の広布の“飛翔期”へ盤石な基礎が築かれました。54年春には10万世帯を達成。56年には、池田先生が中心となって指揮を執った「大阪の戦い」「山口闘争」などで大きく拡大し、同年末には50万世帯を突破します。そして、翌57年12月、ついに第二代会長戸田先生の願業である75万世帯の弘教が達成されたのです。

戸田先生が第二代会長に就任した当時(1951<昭和26>年)、会員は約3000人。就任後9ヶ月たったときにも広布は遅々として進んでいませんでした。横一線に並んで進む雁(かりがね)行進を打ち破るためにはどうすればいいか。戸田先生の心は決まっていました。「そろそろ大作を出すか」。そして、若き池田先生が、蒲田支部の支部幹事に任命されたのです。
池田先生は、次のように語っています。
「昭和27年、蒲田支部の支部幹事となった私は、広宣流布の共戦の同志に訴えた。『この2月、見事な勝利の結果をもって、戸田先生の誕生の月をお祝いしようではありませんか!』。24歳の生命は、真剣の炎、闘争の炎、執念の炎となって、第一線に躍り出た。まず自分が燃えることだ。冷たく黙したままの石でさえ、打ち合えば火花が生じる。いわんや、熱い魂と言葉をもった人間が打ち合うならば、心に火を灯せぬはずは絶対にない」
池田先生の師を思う熱き心と、率先垂範の行動に皆が奮い立ち、それまでどの支部もなしえなかった広布の金字塔が打ち立てられたのです。
伝統の「二月闘争」を貫くものは、“断じて師の広宣流布の願業の突破口を開く”という池田先生の弟子としての一念であり、「師弟不二」の精神であったと言えるでしょう。

第二代会長戸田城聖先生と若き池田大作先生(『新・人間革命』より)

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